2008年4月12日土曜日

えーっと

はじめたばっかですけども、

ちょいと移動いたします。

リンク貼ってくれたナッツ、ごめんねー。貼りなおしてー。

では、また会いましょう〜。


http://karankurun.blog21.fc2.com/


からんくるんでした。

2008年4月7日月曜日

うさぎが4コロ


アロエを愛する筆者。

肉厚のこの子を入手するといつも、ウズウズ。何か作らずにはいられなくなるのだ。

衝動的にとりあえず、皮をむきむき。

プルンプルンを眺めながらしばし、「何を作ろうかしら〜♪」と、ニヤニヤ。



ああっ!そういえば、石けん素地があるやんかぁ。


ということで、アロエを細かく刻んで、石けん素地に混ぜ混ぜ。


アロエの染み出てきたエキスをそのまま「繋ぎ」に使ったので、材料はたったこれだけ。





面倒くさがりの筆者にはぴったりの、


あらまぁ。なんて簡単!


『うさぎが4コロ』

完成ですよ。



形成途中、ペースト段階でうちの暴れん坊ママンが

「顔、洗う〜。」と、だだこねたので既にお試し済みやねんけど、


「さっぱりしたっ♪顔白くなった♪」

喜んでた・・・。無邪気・・・単純・・・・ママン。



石けん楽しい。

もうちょとバリエーション、増やしていこうっと♪

また作ったら発表しま〜す。

2008年4月6日日曜日

宇宙のカケラ。ウェルカム♪


さてさて。

祖母の橋渡しも無事終了して出社したからんくるんに待っていた朗報は♪


なんと同僚の可愛いあの子のご懐妊!

いやぁ。地球は回ってるよね。

去る者もいれば、きちんと来る者もいる。

これぞ宇宙だ。ユニバース。

宇宙の主からの奇跡のプレゼントやい。


大事に大事に見守っていこうね。

2008年4月3日木曜日

美しく大往生


桜がきれいに咲いた昨日の朝方。

父方の祖母が息を引き取った。満89歳。90歳まであと、1ヶ月と少し。

早朝、父からの電話がなった。そんな時間に鳴る電話。もう、その時点でわかってしまった。


 ああ。とうとうお迎えが来たか。


たまたまその前日、母も私も明日は休みが偶然重なったので、ちょうど祖母に会いにでも行こうかと、話していたところだったのだ。

 ああ。おばあちゃんからのテレパシーやったんや。

特養で暮らしていた彼女。
早朝のケアワーカーさんの見回りで息を引き取っていたことに気づいたそうだ。

死因は一応、心不全。
でも、誰もが認めるところの『天寿全う』。大往生だった。


すごく穏やかな、きれいな御顔。
肌の色艶も透けそうなくらい、美しい。

彼女の故郷、尾道から親戚が車でやって来てくれた。

私の顔を見た瞬間口々に、

「急じゃったのぅ。」「よしみちゃん、びっくりしたじゃろう。」

祖母は3姉妹の末っ子。
上のふたりの姉はまだ健在だ。それぞれ、92歳と95歳。

真ん中の92歳の祖母の姉も遠路遥々来てくれた。

「びっくりしたわぁ。」

彼女も笑顔でそう言った。

なぜかみんな、笑顔だ。

瀬戸内の恩恵を受けて育っている彼らはみんな、生粋の瀬戸内メイドなので陽気で底抜けに明るいのだ。


お通夜。

父方は高野山真言宗なので、読経は『南無大師遍照金剛』。檀家なので寺院さんも先代からずっとお世話になっている坊さんがきてくれた。


通夜の読経は、最後、坊さんと参列者全員で、「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛。」と、声を合わせて唱えて終わった。

そこからはまた、酒を飲み飲み飯を食べ食べ賑やかに、祖母を囲みながらの宴会がはじまった。


92歳の最高齢参列者の息子、私の父のいとこである叔父が、

「よしみちゃん。よしみちゃん。」と、話しかけてきた。

叔父はとっても頭が良くって、幅もひろくって、話がめちゃめちゃ面白いから私は叔父に会うといつも、つきまとっている。


「よしみちゃんよしみちゃん。」

「ん?なになに?!」

「よしみちゃん。宗教は哲学から来とろうに。」

「うん。うん。」

「わしは別段、宗教のことは詳しいわけじゃないけんあれじゃがの。」

「うん。うちもそうやで。」

「うん。でもの。哲学から来とるのはわかろうもん。」

「うん。」

「わしは神様も別段信じとるわけじゃないけんの。」

「うん。うん。」

「でもの。さっきのお通夜の読経でもそうじゃったけどの。最後にみんなで、『南無大師遍照金剛』て、3回唱えよったじゃろ。」

「うん。めっちゃ気持ちよかったわ、あれ。身体がポポッポッポした。」

「そうじゃろ。わしゃな、よしみちゃん。
別に神様に救いを求めんでもええ思うとるんじゃ。それでも人間、幸せには暮らしていけるしな。
でもな、よしみちゃん。
やっぱりな、あそこで3回、『南無大師遍照金剛』て唱えられる人はな、
幸せになれるんじゃよ。」


「わしはの、よしみちゃん。もっと幸せになれるんじゃよ。そう思うんじゃよ。」



この日。実家に植えられていた椿は満開。

そして近所の桜並木もほぼ、満開。

祖母を見送る日にふさわしい、そんな日だった。

2008年3月23日日曜日

桜と月夜


東京では桜が咲いて、今宵は月夜で。

今夜は気持ちいいやぁ

と、仕事後、ノホホ〜ンと散歩して。


しあわせ〜な時間。


お風呂でもキャンドル焚いて、好きなアロマオイルと、お気に入りのバスソルト。

そしてお風呂図書を持ち込んで。


ゆる〜くなって、一日の疲れを取りましょう。


TAKE IT EASY で、let it beに。


身体も心もゆるんだらもう


おやすみなさい。

2008年3月17日月曜日

染色体まで

久しぶりに泣いて泣いて笑って泣いた。

確実に私の染色体が轟いた。



私の母方の祖父母のルーツは秋田と山形だそうだ。

祖父はサラリーマン歌人だった。

最も敬愛しており尊敬していた歌人は、山形出身の斎藤茂吉氏だった。


戦前から戦時中、朝鮮で大豪邸のお坊ちゃまとして暮らしていた祖父は、茂吉氏が中心となっていた「アララギ派」で、歌人をしていた。

茂吉氏とは直接面識はないそうだが、同じアララギの近藤芽美氏に詩をみて頂いていたそうだ。


趣味の範疇を超えたレベルで死ぬまで歌人だった祖父の家の表札は「俳名」が、上で、「本名」が、下。

幼かった私は全く意味がわからずに純粋に祖父には2つ、名字があると思っていた。


そして祖父の書斎の書棚には、茂吉氏の書籍がずらーっと鎮座しており、そこの前にいつも腰掛けていた祖父だったので、
私の祖父のイメージはいつも、

齋藤茂吉と一緒

だった。


そんな祖父を見ていたからかどうかわからないが、なぜか私は「齋藤一族」が好きらしい。

長男のモタ先生から始まって、次男の北杜夫氏、孫の齋藤由香さん。そして、茂吉氏の奥様、輝子さん。


齋藤家の方々には非常にお世話になっている。もちろん、書籍上で。


私はこの茂吉、モタ、杜夫氏3名が親子であることを知ったのは実は、3氏の作品を愛読しだしたかなり後なのだ。


何気に興味を惹かれて手に取って読み出してスッポリ気づいたら「齋藤一族」制覇。

不思議なもんだ。

これは祖父の因縁としか思えない。と、思いつつ面白いのでやっぱり愛読「齋藤一族」。


孫の由香氏の存在を知ったのは割と近年で、やっぱり読んでしまう。

OL由香氏は謙遜するが、確実に彼女も「齋藤一族」の才能を受け継いでいるから読んでしまう。


茂吉氏の奥様、輝子さん。

4氏の作品の中に輝子さんはよく登場する。

作品の中の彼女は、私の限りなく理想とする憧れの女性。


そんな輝子さんのことを孫の由香氏が書いた本を読んだ。



『猛女とよばれた淑女 祖母・齋藤輝子の生き方』


ページを開いてすぐ、胸が高ぶり始めて涙が出てきた。

こんな感情になるなんてびっくりした。



Googleで茂吉氏のことを調べる彼女。

卒論で茂吉氏をテーマに選び四苦八苦する彼女。

輝子氏との思い出を記す彼女。

そして、

この本を亡くなられた茂太伯父さまに読んでほしかったと記す彼女。


輝子さんの本のはずなのにこれはくしくもモタ先生への追悼本でもあり、「齋藤一族」そのものの本になってしまった。



その言葉ひとつひとつが、私の中で轟いた。

祖父の因縁でもなんでもなくて、私の染色体には祖父の敬愛した「齋藤一族」が染め抜かれていたらしい。


ずっと、単なるコピー現象だと思っていたけどなんだかどうやらもっとディープだった模様。


こうなったらまだ見ぬ未来の私の染色体にも引き継がせてやろうじゃないか。

と、私の野望は続いてくのだ。

2008年3月14日金曜日

バランス感覚

人間が好き。


でも団体行動は苦手。


ひとりの人と長く話すのが好き。


でもかなりの人見知り。


だけど接客するのは好き。


でも会社の面々とは、なかなか腹を割って話せない。


ひとりでぶらつくのが好き。


でも基本的に誰かといるのが好き。



あと10日ほどで齢32歳になる。


タイ式マッサー師をしている時は、ひとりのお客様に1時間から3時間。ほぼマンツーマンだ。
その間ずっと喋り続ける時もあれば、一言二言話すだけであとはずっと、無言の時間を共有する。

施術部屋にはお客様の好きな音楽が流れ続けるだけ。

心同士の会話のみ。


雑貨販売をしている時は。

かなり大型店舗なので不特定多数の、よっぽどでないとリピーターさんかどうかも記憶に残らないほど沢山の来客がある店なので、色んな人達のエネルギーに囲まれる。

色んな音に囲まれる。


ある意味両極にある仕事をしている今。


20代の頃は、「どちらか」を模索していた。


でも今はこの「両極」をしていることが


とっても心地よかったりする。


労働することを覚えてから10数年目にしてようやっと気づいた。


これが私の バランスなんだ。